2009年8月13日木曜日

平泉




高館、中尊寺金色堂、毛越寺に行ってきました。10km走破。携帯から、詳しくは後で編集

子供がねー、中学校の宿題で、歴史新聞を作るんだと。歴史上の人物を、新聞形式で、レポート。北上に帰るから、ちょうどよいと、義経の話にして、取材ということで、平泉に来たのです。かつて、娘とも来たのですが・・娘は、歴史に少しは興味があったらしいが、息子はどうも・・小学校の時期にゲームのやりすぎで、常識が欠如。
それで、源平の合戦のお話しさえ知らなくて、東京で少し調べて、ようやく来ました。

駅を降りて、僕も行ったことがない柳の御所に行く。何ーんにもなかった・・芝生だけ。資料館があるといって、入った。出土品がちょっと置いてあっただけ。展示の後半半分は、国土交通省の大規模な遊水地事業の宣伝展示。何の資料館なんだか、わからなくなったいました。・・ありがち・・しょうがないね。

それから、義経最期の地、高館へ。ここからの眺めは変わらないね。とはいえ、遊水地用の大きな堤防ができている。確か、平安の時代とは川の流れも変わり、平安平泉の街は川の中、だったと思う。

山を下って、平泉文化史館へ。ここも、随分古ぼけてしまった。昭和40年代ごろ、コンクリートで日本の形を模索していた時代の建物だ。確か、平泉の遺跡発掘の中心的存在で、藤島 亥治郎先生(参考:ヴィタ・ロマンティカ-ある建築家の青春記)の設計だと思った。展示は、先生監修の復元模型がすごい。もう、30年以上も前のものなのだが、今だ、結構いけてる。何せ、建築は、平泉に金色堂しか残っていないのだから・・これで想像するしかない。ほかの展示は古ぼけてしまって、世界遺産なんで言ってるなら、少しは手を加えればいいのになー。

出て、ソフトクリームを食べて、一休み。月見坂を登る。
ああ、やっぱりしんどい。

途中、中尊寺本堂に立ち寄り、金色堂に到着。
パパ、金色堂見えないの?そうだよね、子供はそう思ってしまう。コンクリートにがっちり、覆われてしまっているのだからね。
あの、金色堂が杉木立の中に、立ってたら、やっぱりすごいと思うよ。屋根は、結構軒が深くって、、暗がりの中に、そして深い緑の中に、ボーっと浮かんでいる。
想像するとすごいと思う。
コンクリートの覆い堂より、江戸時代の木の覆い堂のほうが、まだ、構造が付くと思うなー。松尾芭蕉もそれを見たんだとうなって思う。
それで、「・・・・夢の後」なのだろう。
今なら、ガラスで造っちゃう。(僕なら、きっと)。コンクリートでがっちり囲って、完全な空調と人工照明で保存。40年前ならしょうがないかもね。(・・はたと考えた、40年前のコンクリートにしてはきれいだよ。)

この後、能楽堂と、讃衡蔵(宝物館)を見て、山を下り、毛越寺へ、向かいました。

金色堂と讃衡蔵の間の坂を下り、約5キロの歩き道です。小学校4・5年の遠足だったと思う。このルートを歩いたんだよね。長いけど、この道がすきなんだよね。
途中、わらぶきの民家が、いまだにありました。北上と違って、一関近くになると、せみもなんだか勢いがよくないている感じがするんだよね。
途中、新しくトレッキングコースができていました。・・世界遺産めざしてかな?
このトレッキングコースを行きました。木の橋があったり、おしゃれー!と思ってると、熊に注意!!の看板が!!ゲゲー。
さらに、道も険しく細く、土の道になってきたなってきて・・たいへんでした。・・木陰で日差しが遮られていたのはよかった。

途中、普通の道にでて、山を下る。
小学校のころは、山の地肌が見えるような、林道みたいな道も、今は、分譲宅地となっていました。よく見ると、温泉つき宅地とか。お城みたいな石垣と塀に囲まれて豪邸もあって、世の中随分変わったー。

歩くこと5~6km。ようやく毛越寺到着。
腹も減ったし、へとへと。
庭を見るどころじゃ、なくなってしまった。

相変わらず、庭の石組みの存在感はすごい。
・・と、思いながらも、・・・やっぱり、金色堂以外、目に見えるのは遺構のみ。この毛越寺だって、かつては、田んぼ。航空写真を見て、田んぼが池の形になっていて、遺構に気づいたとか、大学のとき木村徳国先生が言ってたなーって思い出す。

それにしても、よく歩きました。

帰りは、駅で、そば食べて、電車で帰宅。

0 件のコメント:

コメントを投稿