2009年3月28日土曜日

帰省。気になる記事



帰省し、岩手日報を見ていると、この記事が目に留まった。

「『目標「歩きたいまち」 一ノ関駅の周辺整備』 

一関商工会議所(宇部貞宏会頭)は26日、通常議員総会を開き、磐井川堤防改修に伴う一ノ関駅周辺整備に関する提言を公表した。「まちは公園」がテーマ。駅前に図書館を中心とした情報発信センターを整備するとともに、子育てや雇用支援施設、勤労青少年や女性のための施設など公共施設を分散配置し、50年、100年後の「歩きたいまち」を目指す。」

全文は、岩手日報http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20090327_11を参照されたい。

私が、注目したくだりは、

『「まちは公園」がテーマ。・・・・・公共施設を分散配置し、50年、100年後の「歩きたいまち」を目指す。』という部分なのです。

このところ地方都市は、すっかりシャッター商店街が、定着してしまったように思う。私が学生のころはまだ、そうでもなかったように思う。学生のころ(もう20年も前になるが)北上に帰省し、暇に任せて、街中の本屋さんを立ち読みして、はしごしていると、誰か友人に会ったものである。

僕も、大学で、都市計画研究室に属し、町の動きについては興味もあり、その後、まちの変化を中止していたのであるが、街中の都市再開発ビルが、幾度建てられようと、結局、市街地の商店街は、シャッター街化、寂れる一方に思える。

原因は、モータリゼーションによる生活様式の変化、さらに、バブル経済崩壊による経済の悪化、ITによる経済構造の変化が、それに追い討ちをかけているのであろう。

しかし、いま、日本の都市・街を振り返って見ると、それは、単に経済活動の道具としか見ていない、日本人の深層意識にもあるように思う。それゆえ、都市や街に対するビジョンもない、経済の動きに流されるがままではないだろうか。・・・都市は、歴史を見れば経済発展の鏡であることも確かだあろうが・・。

しかし、思うのです。欧米の町は、なぜ、美しい街が多いのだろうと・・。日本と同じ、車社会とITによる経済的変化のなかにありながら、です。

そこで、私が今思うのは、都市や街は、人々の社会の一部であり、人が集まり・集い・歩き回るための、社会的に必要な施設・器という意識があるのではないかと思うのです。・・やっぱりギリシャの都市国家・アゴラが原点なのかな・・と。経済活動の結果としての都市・町としてだけではなく、経済活動を支えるための政治的・社会的器としての町のイメージ。その結果、経済活動以外の意思・フィロソフィーを持って、都市・町が考えられているように思うのです。

で、日本はというと、意思・フィロソフィーを持って、都市・町を構想しているところがあるのだろうかと思うのです。それも具体的な絵になるイメージを持って。・・・答えはノー、じゃないですか・・・

これ以上、大上段に書いていくと・・とりとめもないし・・、論理的に言うと、こっちの調べも十分でないから、上目線は、これくらいにしておいて・・・。

それで、何を、言いたいかというと、一関市の

  • 『「まちは公園」がテーマ』
  • 『公共施設を分散配置し、50年、100年後の「歩きたいまち」』

というのは、すごくいいビジョン・構想じゃないかと思うのです。意外と地方都市の中心市街地は、緑が少ないし、歩く気分にもなれない。それに、「歩きたい街」とは、集まることの原点であるし、先に言ったように、近年経済中心主義で失われた都市・町の原点を示しているように思う。それに加えて、それを実現する手法とは、市街地への「公共施設の分散配置」という手法が、適切であるように思う。なぜなら、都市・町とは、経済的中心であるばかりでなく、社会、政治的中心でも、あるべきだと思うからなのです。

そんな、思いで、この記事を眺めていました。

ほかチェックした関連記事

もっと書きたいこともあるけど、・・できれば次の機会に。

0 件のコメント:

コメントを投稿